COMPASSコラム「平成の終わりに」 ~平成の終わりに17歳になった息子へ、平成の始め17歳だった父から~

「平成の終わりに」~平成の終わりに17歳になった息子へ、平成の始め17歳だった父から~

元号が昭和から平成へと変わるその年の初め、僕は沖縄水産高校野球部員の2年生だった。元旦、2日と休日返上で自主練に励んでいたが、3日に行われた部員全員での全体練習を休んだ。その日は、僕が3歳のときに母と離婚し、県外に暮らしていた父が久しぶりに那覇に戻っていた。一緒に食事ができるとのことで、心苦しくとも嬉しくとも練習を休み、兄妹と僕の3人で出掛けた。高2の春、いよいよ高校最後の夏の大会に向けた前哨戦となる春の大会も控える大事な新年のスタートだった。僕の高校球児としての一生は、いつも出だしの一番を、チームの皆と(*不本意ながら)足並みを揃えきれていない。

中学1年生のとき、僕は当時、既に沖水野球部の監督をしていた栽弘義先生からスカウトを受けた。ポジションはキャッチャーだった。その後も野球の練習や試合で沖水のグラウンドを訪れる度に先生は声をかけ続けてくれた。他校の陸上部や柔道部からも誘いを受けていた僕のことをいつも気に掛け、沖水野球部の魅力と僕の力が生かせる環境の良さを繰り返し伝えてきてくださった。

母子家庭の次男として育ち、幼いころから炊事、洗濯、裁縫までもこなしながら新聞配達をして母を助けた。ただただ褒められたかった。兄妹との比較において「なぜ自分だけが」と縮こまる思いを抱える時期が長かったように思う。父親との生活体験のない僕にとって栽先生は、そんな僕のことを理解し、見守り、可能性を丁寧に語ってくれた、初めての大人だった。

入学する直前の中3の秋、栽先生は旧リウボウで勤務する母と僕を近くの鰻屋さんへと連れ出し、「今日から僕が君の親父だ。」といってくれた。すべてを受け入れてもらえたような、大きな傘を手にした気分だった。栽先生を生涯の恩師と仰ぐのに時間など必要なかった。甲子園球児に育てたいという期待感と、父親代わりを申し出てくれた愛情、そのどちらもあまりに懐深く、碇のようにずっと僕の心の支えであり続けた。

 

期待を胸に入学を控えた1987年、中3の春、僕は血尿が出て入院した。急性腎炎だった。小5以来、2回目の入院だった。中学卒業前に退院して晴れて沖縄水産高校に入学、そして野球部に入部を果たした。ポジションは病気のこともあり一塁に変わった。すぐには練習に加わることができず、5月中旬ごろまで通院しながら、一人、黙々とブルペンの草むしりをしていた。その後3年生との練習にも交ぜてもらったが、入院による静養と食事制限で落ちた体力では到底ついていけなかった。

当時100人を越える部員がいた中で、遅れて入ってきた1年生が、1カ月足らずで上級生の練習に加わるだけでも異例。周囲の視線の痛さよりも、動揺、混乱する自分の内心と向き合うだけでも大変だった。高校野球集大成の夏の予選を間近に控え、緊迫した雰囲気で練習に臨む上級生の足を引っ張るばかりで、まっすぐ顔を上げることすらできなかった。「すみません、すみません、」を連呼する僕に、恩師は拡声器で「平良、そんなすみません、すみません、では、お前の人生は、すみません、すみませんで終わるぞ!!」と、慈しみある罵声を投げつけた。

(*あのとき先生が叱りつけてくれた事で回りの気を一瞬は治める効果があったとのだと今、振り返り思える。)

 

2年生になって迎えた夏の新人戦も直前まで、再々発した血尿の症状で入院を余儀なくされた。退院したのは大会数日前。チームを率いるべきキャプテンでありながら、体力と意気地のなさに、その荷を重く感じながらチームに合流した僕に、コーチは背番号「1番」を手渡した。開幕中の甲子園でベスト4まで勝ち進んでいたことで、たまたま空席になっていた同級生エースの背番号。甲子園にいる栽先生からコーチへの指示だった。どんな状況でも見放さない、精いっぱいの恩師からのエールに胸がつまった。

秋の大会も、開幕一週間前に僕は膝の半月板を損傷するけがを負った。それまでは、いつになく絶好調で、部長から「プロを目指して早くお母さんを楽にさせてあげないと」と激励をいただくほど、前向きに練習に励んでいた矢先のケガだった。

この秋の大会をなんとか乗り切れば、オフシーズンに入りゆっくりケガの治療に専念できる。その先の春の甲子園の本番に照準を合わせ、僕の活躍できる場をつくろうと、采配を慎重に検討してくださっていたに違いない。栽先生は「大会が終わるまでは病院に行くな」ときつく言いつけた。しかし、僕は痛みをこらえきれないことを言い訳にそっとグラウンドを抜け出し、日曜診療の病院へ駆け込んだ。

「平良の背番号を取り上げろ」

病院から戻った僕に、先輩が栽先生の伝言を言いにくそうに伝えてきた。先生の言うことは絶対だった。わかりきった指示に背いたのは、僕の弱さと逃げでしかない。僕を寄せ付けず、口をきかなかい期間は2カ月あまりに及んだ。その時、取り上げられた背番号は「15番」だった。

 

高校最後の甲子園が迫っていた。夏に間に合えばいいとの栽先生の指示で、春の大会までずっと一人、サブグラウンドを独占させてもらいながら、コーチとマンツーマンでひたすらノックを受ける毎日が続いた。ようやく感覚をつかみかけた、そう思ったころ、肩痛が襲った。さらには股関節の剝離骨折まで疑われる痛みまで加わり、目の前が真っ暗になった。もう後がなかった。

春の大会開幕まで一週間となった日、今度は自ら背番号を部長に返上し、入院した。背番号は「16番」だった。さすがに重すぎた。約束した甲子園の舞台へ連れて行こうと、繰り返すケガや失敗に関係なく、幾度となく再起のチャンスを与えてくれた。先生の期待と愛情にどうしても恩返しすることができなかった。

練習後に見舞いにきてくれた親友を前に、留めなく泣いた。悔しくて、悔しくて涙が止まらなかった。そして僕の心は確かに、折れた。

高3になり、退院後の4月、一度だけ練習に戻った。でも、あの折れた心では立っていられなかった。「グランドに戻ってこい」「立ち続けろ」、代わる代わるコーチや先輩、父兄を通して栽先生からのメッセージが届いた。人づてに夏のメンバーに入っていることを聞いた直後、体育館にある教官室に栽先生を訪ねた。「先生、辞めさせてください」と直にお伝えした僕に、先生は「休部で」と応じてくれた。

 

高校球児の一生は、最長でも2年半である。当時の僕には入学直前の中3の春の躓きは高校球児としての一生の躓きであり、狂った歯車を元に戻すことができなかった。振り返れば、ただ一つ、恩師に報いたのは、恩師の長い監督生活で一度も優勝がなかった「1年生大会」で、キャプテンとして勝利に貢献できたこと。残念ながらそれが、僕の残せた唯一の球児の軌跡だ。(*同様のチャンスがあれば、僕よりもきっと活躍できただろう同級生には、今でも申し訳なく思っている。)

僕にとっての「平成」は、惨めで、悔しくて、悲しくて、情けなくて、申し訳なくて・・・との念に覆われて始まり、そんな呪縛を背負いながら、懺悔するような30年だった。それでも何とか、強い向かい風の中で離陸できたのも、恩師の御蔭、授かった薫陶のおかげだった。後輩に道を拓く、社会に役立つ、故郷のためにはたらく、人生は挨拶と感謝。僕の人生は、その道標を命綱に、「平成」という時代を昇華させ、西暦の上を歩き続けていくのだろうと感じている。

 

結びに、おかげさまで僕もあの時の恩師と同じ47歳になりました。でもまだまだ、まだまだだなぁと思う毎日です。 

91年夏の甲子園優勝戦、敗退の夜、宿舎 宝月の栽監督のお部屋で  撮影は、栽 志織氏

87年秋1年生大会で優勝した夜、水産祭の最中、校長室の前で

89年夏の甲子園沖縄県予選、準決勝延長11回 興南高校にサヨナラ負けを喫し6年連続の甲子園への道が断たれた夜、体育館の前で

豊見城中学グランドで。左手にはめるは、ローリングスのキャチャーミット。実父からの中1入学と野球部入部のお祝いで遠く名古屋から送られてきた。生まれて初めて実父と繋がっだ感じがした

1989年3月23日 沖縄タイムス